さて、なぜ人は「悲しい」「嬉しい」「楽しい」「悔しい」「怒り」などの感情を持つのでしょうか。
心の動きがあることは、みな自分の心で知っています。それは、眼に見えないけれど確かにあります。では、それらは何故、人の心に“ある”のでしょうか。
それに就ては、人の基本的な感情について考えれば見えてきます。現代に生きる人々は、複雑な感情に振り回されがちですが、いくつかの例外をもありますが、根本的なことは「良いこと」か「悪いこと」の二つだけです。
単純でしょう?
では、何故、この二つなのか。
これは、とても単純で奥深い理由からなのです。その理由はただひとつ、「生きるため」。
人として、いえ、生命としてこの世に生を受けた。それは、それ自体が「生きる」という方向性を持ったものです。
なぜ生きるのか? そんな疑問は成り立ちません。生まれたこと自体が、「生きる」ということなのです。
さて、先日生まれたナミを見てみましょう。誰に教えられることもなく、お腹がすいたら泣き、乳を与えられると満足して眠りにつきます。とても、分かりやすいでしょう。
お腹がすく、は「悪いこと」です。生きるのに不都合なことです。逆に満腹になる、は「良いこと」です。これでナミは生き続けることができるのです。
この時点で、ナミにとっての「良いこと」と「悪いこと」は、私たちの感じる感情とは、まだ同じものではありません。これは、生命がもつ「生きる」という方向性に導かれた反応に過ぎない。けれど、それこそが感情の土台であることは間違いありません。
なぜ、人に感情があるのか、その答えは、生命が「生きる」という方向性を持つため、なのです。

心の動きがあることは、みな自分の心で知っています。それは、眼に見えないけれど確かにあります。では、それらは何故、人の心に“ある”のでしょうか。
それに就ては、人の基本的な感情について考えれば見えてきます。現代に生きる人々は、複雑な感情に振り回されがちですが、いくつかの例外をもありますが、根本的なことは「良いこと」か「悪いこと」の二つだけです。
単純でしょう?
では、何故、この二つなのか。
これは、とても単純で奥深い理由からなのです。その理由はただひとつ、「生きるため」。
人として、いえ、生命としてこの世に生を受けた。それは、それ自体が「生きる」という方向性を持ったものです。
なぜ生きるのか? そんな疑問は成り立ちません。生まれたこと自体が、「生きる」ということなのです。
さて、先日生まれたナミを見てみましょう。誰に教えられることもなく、お腹がすいたら泣き、乳を与えられると満足して眠りにつきます。とても、分かりやすいでしょう。
お腹がすく、は「悪いこと」です。生きるのに不都合なことです。逆に満腹になる、は「良いこと」です。これでナミは生き続けることができるのです。
この時点で、ナミにとっての「良いこと」と「悪いこと」は、私たちの感じる感情とは、まだ同じものではありません。これは、生命がもつ「生きる」という方向性に導かれた反応に過ぎない。けれど、それこそが感情の土台であることは間違いありません。
なぜ、人に感情があるのか、その答えは、生命が「生きる」という方向性を持つため、なのです。

生れ落ちた瞬間の感情が「悲しみ」であるかどうかはわかりませんが、普通心理学では、乳児が示す基本的情動は、研究者によって、多少の違いはありますが、「喜び」「興味」「悲しみ」「怒り」「恐れ」「嫌悪」「苦痛」などといわれています。
なんとなく理解できそうですが、では、生まれたばかりの赤ちゃんについてはどうでしょう。「嫌悪」や「喜び」はありそうな気がします。お腹がすいたら「嫌悪」でしょうし、お乳が与えられたら「喜び」を感じていそうです。しかし、そのほかの情動(感情)については、どうでしょうか。
これらのいくつかの情動が、本当にあるかどうかを確認するのは難しそうです。また、このように分類するのも、本当に赤ちゃんがその感情に区別があるかどうかも疑わしいと思います。「悲しみ」と「恐れ」、「嫌悪」と「苦痛」、大人になった私たちでさえその境目があいまいなことがあるのに、まだ未発達な赤ちゃんに、そんな区別があるのでしょうか。
発達の初期において、これら情動の種類を考え、区分することは意味の無いことのように思われます。
ここでは、それら情動がおこる根本的なところまで、戻って考えてみたいと思います
なんとなく理解できそうですが、では、生まれたばかりの赤ちゃんについてはどうでしょう。「嫌悪」や「喜び」はありそうな気がします。お腹がすいたら「嫌悪」でしょうし、お乳が与えられたら「喜び」を感じていそうです。しかし、そのほかの情動(感情)については、どうでしょうか。
これらのいくつかの情動が、本当にあるかどうかを確認するのは難しそうです。また、このように分類するのも、本当に赤ちゃんがその感情に区別があるかどうかも疑わしいと思います。「悲しみ」と「恐れ」、「嫌悪」と「苦痛」、大人になった私たちでさえその境目があいまいなことがあるのに、まだ未発達な赤ちゃんに、そんな区別があるのでしょうか。
発達の初期において、これら情動の種類を考え、区分することは意味の無いことのように思われます。
ここでは、それら情動がおこる根本的なところまで、戻って考えてみたいと思います
この世に生まれてすぐに人がすることは、もちろん「泣く」ことです。人は悲しみをもって生まれるのだと、哲学者なら言いそうです。さて、生まれたばかりの赤ちゃんに、「悲しみ」という感情があるのでしょうか?
赤ちゃんにインタビューすることができませんので、あくまでも想像するしかありませんが、一個の卵が受精して発達を始め、一人の人の形となり生み出される直前まで、ひとつの安定した同じ環境の中にいることは間違いありません。
脳も神経も皮膚も、内臓も筋肉もない、一個の細胞に感情があるとは考えにくいことです(もしかしたらあるのかもしれませんが)。わずかずつ、部屋は狭くなりますが、それもゆっくりとした変化でしょう。音が聞こえるように神経がつながってくるかもしれませんが、音を聞き(知覚)、音であることに気がついた(認知)としても、それは感情を呼び起こすほどの大きな変化ではないように思われます。
さて、出産のとき。変化の無い環境から突然押し出され、酸素や栄養を取り入れていたへその緒から離されるとき、赤ちゃんの心の中には何があるのでしょうか。
その劇的な変化で、ほんとうに赤ちゃんは「悲しみ」をおぼえるのでしょうか
赤ちゃんにインタビューすることができませんので、あくまでも想像するしかありませんが、一個の卵が受精して発達を始め、一人の人の形となり生み出される直前まで、ひとつの安定した同じ環境の中にいることは間違いありません。
脳も神経も皮膚も、内臓も筋肉もない、一個の細胞に感情があるとは考えにくいことです(もしかしたらあるのかもしれませんが)。わずかずつ、部屋は狭くなりますが、それもゆっくりとした変化でしょう。音が聞こえるように神経がつながってくるかもしれませんが、音を聞き(知覚)、音であることに気がついた(認知)としても、それは感情を呼び起こすほどの大きな変化ではないように思われます。
さて、出産のとき。変化の無い環境から突然押し出され、酸素や栄養を取り入れていたへその緒から離されるとき、赤ちゃんの心の中には何があるのでしょうか。
その劇的な変化で、ほんとうに赤ちゃんは「悲しみ」をおぼえるのでしょうか


